転職バテでブログさぼってる間に、宮崎勤死刑囚に対する刑が執行されました。
某新聞が拙劣なコメントをつけたせいで、ひとしきり話題になったりしましたっけね。

ちなみに我が家は「宗教上の信念から」執行書にサインしなかった某前法相と同じ真宗大谷派なのですが、私の知りうる限りではうちのお寺さんや家族親族にはこの前法相と同じ信念を持った人間は確認されておりません。
個人的には、信教を口実に逃げを打ってるようにしか見えませんでした。

そりゃ誰だって嫌でしょうよ。相手がいかに凶悪犯だったり猟奇的犯罪者だったりしても、サインひとつで何人かの命を断つ責任を負うんですから。
現法相も支持している訳じゃありませんが、その嫌な事を法相に就いた者の仕事として粛々とこなした所は同じ宗派のどなたかよりずうっとポイント高いです。

まして「記者クラブに出入りできて一般人の知らない情報を握ってるボクタソマンセー音譜程度のEQしかない輩のたわ言なんぞ聞く耳持たんわw

で、宮崎元死刑囚の件ですが。
刑が執行されたという報道を聞いた時に、何故だか

ほっとした

んですよ。

同年代で当時同系列の趣味を持っていた、という事以外に何のかかわりも持っていないのに。
これまで東武伊勢崎線に乗って小菅駅を通るたんびに感じていたムカつきもなくなりました。
(東武線小菅駅のホームは高架になっていて、電車がこの駅に停車すると東京拘置所がとてもよく見えますorz)
一体、このお腹の底から感じる安堵感は何なのだろう?


つらつら考えるに、どうも同年代の者としての嫌悪が強かったようです。
拘置所にいる間の元死刑囚についてはずうっと「まんまとしてやられた」みたいに感じていたもので。

あれほどの事件を起こしておいて、結局その後20年近くもの間働く事も無く生き続け、理由は知りませんが個室を与えられて三食もらって好きなアニメをみてアニメ雑誌を読んでいた訳で。
元死刑囚からはもともとモラトリアム型オタクのイメージが感じられていたので、もしもそのタイプだったのならこれってある意味理想的な生き方の様に感じられます。
どうにもその辺に納得がいかなかったんですよね。

だからって、人ひとり死刑になってほっとする自分の精神構造にも何か納得いきませんが。


この人の冥福は、どうしても祈れません。